わたしは、このYさんをみていて、つくづく自分の仕事の限界を知らされました。


ひとり住まいで、ときどきの訪問のときに、お寺参りの話をきいたり、身の回りのお世話をするヘルパーの仕事だけでは・・・


今のYさんのようなよろこびは実現できなかったと思うのです。


また、体が動かなくては利用できないデイサービスでもこのようなことは出来なかったでしょう。


とくに、「温かい味噌汁」のような隣近所の主婦のボランティアとしてのきめの細かいふれあいが大切だと見直しました。


さて、わたしの知人の近所に、いつもいつも「縄づくり」にはげんでいる80余歳のおばあさんがおります。


ふっても照っても・・・


2階のあてがわれた部屋で「縄づくり」。


部屋には縄が積みあげられているそうです。


実際はあまり使われていないのですが・・・・・。

2、3日、姿がみえないと心配した隣家の奥さんがのぞくと、冷えびえとした部屋のなかでYさんが寝こんでいました。


それをみて驚いた隣家の奥さんは、さっそく、温かい味噌汁を運んでたべさせました。


その味噌汁の温かさにこれまでのかたくななこころも開いていったようでした。


その後の体の調子も悪く、デイサービスも利用できず、そのためもあってか、「近所に迷惑をかけていてはすまない」といって、自分から老人ホームへの入所を決意しました。


「老人ホームというところは、殺さず、生かさず、見殺し、飼い殺しの豚や・・・・・」


・・・とあれほど嫌っていたYさんだったのに・・・・・。


先日、Yさんの入った老人ホームに面会に行ったとき、同じ部屋のねたきりの老人の枕元に立って、背をなで、抱き起こし、薬をのませたり寮母さんの手伝いをしているYさんは、それはうれしそうな様子で、まるで別人を思わせました。


これまでの寺参りでも救われなかったこころが、一椀の温かい味噌汁によってとけ・・・


ホームでほかの老人のために自分が大事なお世話ができるよろこびへと広がっていったのです。

「Yさん、おばあちゃんにはわたしから話してあげましょうか。どう、いっしょに暮らしたら・・・」


「わしには、それは承知できんのや・・・」


デイサービスの送り迎えのたびに言うわたしにかえってくる言葉です。


そんなやりとりが日課のようになっています。


4人の実子・・・


それに老妻までが近づかなくなって30年あまりのやもめ暮らし・・・。


そのYさんにとっては、寺参りが唯一の生きがいです。


訪問のたびに、「仏」や「死」について何かと話してくれます。


・・・それがYさんにとっては生きがいでもあるのです。


冬のはじめ、寺参りの帰りに雨にぬれて、寝こんでしまいました。

デイサービスで働き始めて数年・・・。


多彩な運命をこぎぬけ、好む好まないにかかわらず、ひとり暮らしやねたきりでおられる老人がたとの出会いは、驚きと感動の日々でした。


老人ホームに入所した老人を訪ねて、ある老人ホームを訪れた際、玄関脇で日なたぼっこをしておられた老女の、そのときのつぶやきが今もって忘れられません。


「わたしは、毎日、ここに坐ってあの子が迎えに来るのを待っとりますのや。


今日こそは来るやろうと思う。


うちの子どもらは、小さい時からいうことをきくかたいもんやった。


ここに、わたしをひとりにして置いておくはずがない・・・」


ひとり住まいが呑気でよい、という老母もあれば、ひとり置いておくはずがない、という老母もある・・・。


息子を責める前に、老人を憐れむ前に、大きな力で動いている社会の中で、みんなで話し合わねばならぬことがあると思います。

現場は、いろいろなことを克明におしえてくれました。


つぎに、仕事の分野を明確にしてほしいということです。


欧米や諸外国の例2部分だけをとり入れたような形では、ヘルパーの仕事分野が明確になりません。


そのために、ヘルパーの対象者にたいする処遇が一致しにくいのです。


ヘルパーやデイサービスの仕事は制度としての仕事で、対象者と個人的な関係に立つものではありません。


制度である以上、対象者はヘルパーの共有のものです。


処遇の違いは対象者を混乱させるばかりでなく、ヘルパーのチームワークがが保たれにくいのです。


老人の「ここで死にたい」「この家で死にたい」という願いは、万老の願いであるといえます。


これまで、施設で死にたいなどという言葉をききいたためしがありません。


もしあるとしたら、地域からまで見はなされ、泣きながら決意させられた「施設行き」でしょう。


・・・とはいえ、みまもる者がヘルパーやデイサービスだけでは、叶えられる願いではありません。


しかし1日でも長く住みなれたこの家に住まわせてあげるくらいのことは、できなくはありません。

業務日誌さえ必要とされていなかった時期さえあります。


いわば「産みっ放しの制度」というよりいいようがないのです。


人間を対象とする仕事が、少しも重要視されないのは何故なのでしょう。


現場での作業は、どんな小さな作業でも、老人のこころをぬきには出発しないのです。


デイサービスやヘルパーはひとのこころの問題にまで立ち入る必要がないというのであれば・・・


植木に水をやる仕事と少しもかわりがないものになってしまいます。


老人は人であって植木ではないことを、現場で、現場の老人からこれでもか、これでもかというほど、思い知らされました。


ヘルパーとしてほしいものは、と聞かれたら、現場を経験し、老人をよく識ったスーパーバイザー(指導・監督者)、病気にたいする看護婦、保健婦などがあげられます。


・・・が、どんなに人材が整備されても、老人を、老人のこころをすべての人間要求として認めたうえでの整備でなければ、かならずどこかで行きづまるでしょう。

こんにちは。


今日は、「制度の肥立ちをよくするためにできること」を考えていきたいと思います。


採用のために福祉事務所の係長に面接したとき「むずかしい仕事ですか」と尋ねました。


「いや、女でさえあれば誰にでもできる仕事ですよ」


・・・といわれ、安心しました。


「報酬の少ない仕事ですが、相手をよろこばせる仕事ですから、よろこんでもらうことが報酬でしょうね」


・・・ともつけ加えられました。


当時、奉仕者であることに誇りをもち、胸をはずませたわたしは、それが施策の姿勢であるとは思いもよりませんでした。


なんの予備知識を与えられたわけでもなく、注意ひとつきかされませんでした。


今のデイサービスや介護ならありえないでしょう。


ですが、発足当時はこれが当たり前だったのです。


・・・あれから数十年、これというほどの研修も受けていません。

在宅老人にたいするケア体制がヘルパー事業とデイサービスだけにとどまっていることと重なって、老人にとって「制度の枠」はきびしすぎます。


病気や老化がすすめば、今の制度では施設入所以外に道はないわけです。


入院するときでも、病院の車が勤務時間内に迎えにくるとは限らないなかで、時間外労働は制度上認められないわけです。


認められないところから、いきおい老人も地域の人びとも、奉仕員の「奉仕」に期待をかけ・・・


ヘルパー個人の人間性に責任を問おうとするのです。


制度が政策である以上、政府予算が基本になることを知らないわけではありません。


予算は老人の要求に、それ以前に老人を人としてどう価値づけ・・・


人としてどう大切にするかという思想が裏うちされたものでなければならないと思うのです。


盲老人の入浴の介護や、入院時の病院車待ちの時間外勤務が予算を超過することで、「制度の枠」を越える仕事である、と枠からはずされているとしたら・・・


老人にとってヘルパーにとっての悲劇です。

盲老人の生活は、一般老人とは比較にならないほどの縮小された生活です。


一日いっぱい、なにもすることがなく、うずくまっているのは例外なく盲老人です。


老人にとって、とくに盲老人にとってのデイサービスでの入浴、銭湯行きは、たんに保健上の入浴でありません。


かけがえのないたのしみであり、生活の変化なのです。


昔なじみと言葉を交わすときの明るい表情は、その場以外にはみられない表情です。


ところが、この入浴の介護は時間外の仕事です。


「1日6時間勤務」制度である以上・・・


時間的制約が当然ではあっても、勤務時間をずらせばできるでしょう。


・・・この簡単なことがなぜできないのでしょうか?

今日からブログを始めることにしました。


日々思ったことなどを、書ける範囲で書いていきたいと思います。


まだブログ初心者なので分からないことだらけですが、よろしくお願いします。


最初に、ホームヘルパーやデイサービスの仕事というものについて綴りたいと思います。


制度の仕組みのなかに、ヘルパーやデイサービスの行きづまりや悩みを把握して、それに助言を与えてくれ、相談を受け入れてくれる責任者が置かれていません。


この業務は、福祉事務所として位置づけられているわけですが、そうした今のやり方では、老人のほんとうの姿がとらえられにくいのです。


ヘルパーは、行きづまりや悩みをケースワーカーのところにもって行くのですが、ワーカーはかならずしも老人福祉の専門家ではありません。


どれほどケースワークには堪能ではあっても、老人固有のケースワークにまで機能させるのは無理であり、苛酷であると思うのです。


ワーカーのところの無理は、ヘルパーへの助言だけにとどまりません。


「仕事の枠」の判断がそれです。


「仕事の枠づけ」は、老人固有の要求のなかでなされなければ、ほんとうにその制度を生かしたということにはならないのです。


たとえば、盲老人の入浴は、事故防止を理由に制度の枠を越えるものとされています。


このことは福祉事務所の性格を端的にあらわす例のひとつです。


事故防止のための手段、方策は何ひとつ示されていないのです。